吃音とは、どもることである。
言葉がつまる。緊張していなくても言葉がでないことがある。
かっこつけて言えば、言葉の非流暢性。
本質的な吃音の症状。
それは、言葉がつまるという症状ではない。
本質的な吃音の症状とは、どもるからと夢を諦めること、どもるから自分なんか無理と思うこと。
自分の言葉のことを恥ずかしいと思うようになること。それによって、人と関わるのを避けてしまうこと。
確かに、事実として、言葉が出ないということが起こる。
でも『気にしない』という決断をしてみる。
それは決して簡単なことではない。どもったときの相手の反応で嫌悪感を示されたりすると落ち込む。
でも、僕は落ち込んでも落ち込んでも、時に深く傷ついたとしても、
『僕はそんなこと気にしない。』
何千回と自分に言い聞かせ、納得しようとしてきた。
確かにどもるという事実は起こる。それは仕方のないこと。
それでも、夢を諦めず自分らしく生きようとすることが出来れば、もう吃音ではない
だた、事実として、『言葉がつまる』現象があるだけ。
僕は、たまたま、旅に出た。
旅に出ると、言語がちがう。だから話す時も間違えて当然。多少変なこと言ったって、多少どもったって、外国人だから、まあまあ、と思ってくれる。だから、その意味で、僕は吃音だとあまり気にしなくてよかった。外国への旅でそんな風に思う。
異文化に自分を置く。
そうすると、変わっていて当然。
異文化圏から来たのだから、違うに決まってる。
みんな何かしらある。
認められないこと、許せないこと、引きずっていること。
それを気にして、自分らしくいないことこそが、本質。
コンプレックスがだめなわけではない。
自分を苦しめているのは、コンプレックスを言い訳してしまうこと。
人と違って当然。
旅に出たらそんな自分を受け入れてくれる旅先にきっとたくさん出会えるかもしれない。
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